3年ブログ

適応障害と診断された2016年8月スタート。3年間は書き続けようと決め、現在7年目になりました。

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僕たちは、雲の上で激戦の抽選会を勝ち抜いてきたのかもしれない

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寝る前に日記を書いている。

いまも日記を書こうとして、ふと手が止まった。

 

日記には毎回、時刻も記入している。

写真にはよく、自分の影を写し込む。

やったことはないが、リストカットをしたい気持ちがある。痛いだろうから今後もやらないとは思うけれど。

 

これらはぜんぶ、似ていると感じた。

自分が生きているということ。それを認識したがっているのではないか。無意識に、僕はそれを自覚しようとしているのではないか。

 

人の話を聞くのが好きだ。

どうしてだろう。

 

自分は相手を、1人の人間だと認めている。それと同じことを相手もきっと感じていてくれているんだろうと考える。相手の目には、自分の存在が写っているはずだ。

相手は、僕が1人の人間だと認めてくれているから話をする。僕が壁であったり、フライパンだったりしては話をしてくれないだろう。僕が人間であり、心がかようから話をしてくれている。そう思うと、たしかに自分がここに存在していると認識することができる。

 

感触が好きだ。

どうしてだろう。

 

手触り、振動、音。そういうのを身体で感じるのが好き。

カメラで写真を撮るときに感じる、カメラの重さ、手に持ったときのフィット感、シャッター音。

歩くときに感じる、靴が地面に当たる振動、砂粒を踏みつけるジャラッと鳴る音。

そういった感触を日頃からたのしんでいるのはなぜか。これも、自分が存在していることを再確認するためなのではないか、なんて思った。

 

なんでだろう。

なんで、生きていることを自覚しようとするんだろう。

 

いまのところ、僕には1つだけ「これなんじゃないか」と思っている答えがある。

 

それは、魂だったから、というものだ。

 

とてもフワッとしているし、そういう話がキライな人もいるだろうと思う。でもそんな人はきっとここまで読んでいないはず。

話を続けよう。

 

僕は、というか改めるならば僕の奥にある" 本来の僕 ”は、以前は魂という単体の存在で、生き物ではなかったんじゃないか。

魂単体では生きている状態にはなく、感覚もない。いま僕に入っているこの魂は、「感覚を得たい」「感じることをしたい」と強く願って、降りてきたのかもしれない。

その結果、寿命という制限つきだが念願の肉体を得ることができ、それによってついに感覚を味わえるようになった。だから僕は、念願だったあらゆる感覚を寿命のあるうちに味わいつくそうと、大切に感じ入っているのではないか。

 

感覚とは、生きていないと味わえないものだ。

感覚を得たことが、本当に嬉しかったのかもしれない。

 

宝くじで1億円があたったら、きっと通帳に記載されたその額をみて、0を何度も数える。本当か? 本当に、1億円が手に入ったのか!? って。

それと同じように、自分が生きていることがにわかには信じがたくて、折に触れて頻繁にたしかめているのかもしれない。

もうそろそろ生きて30年になるけれど。それでも未だに信じられないというか、生きていることに感動しているのかな……。

 

こうしてここに生きている。それは当たり前のように思えて、すごく特別なのかもしれない。

魂が生きている状態になるには、ひょっとしたら雲の上で抽選会があるのかもしれない。宝くじどころの確率じゃなく、もっともっと激戦の。

 

もしそうだとしたら……生きているって素晴らしいなって思う。

 

寿命をまっとうできなくても、病気で早くなっちゃっても。

でも事故などで突然終わってしまう、というのはたしかにツライだろうな。

 

そんなことを考えているいま、現在の時刻1時44分。