3年後の私をつくろう

2年目に突入。振り返ったとき、このブログが転機になったと言えるように。そう願っています。

【仕事の悩み】朝は鬱になり、夜は元気です。

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最近の朝は、毎日憂鬱な日々の連続です。

具体的には、「今の仕事は続けたくない」「でも転職したいわけでもない」「やってみたい仕事はあっても、激務であろうデザイナー系であったり、『カメラに関すること』みたいに、あやふやな考えしか持っていない」...。

今のままじゃ、まるで消極的な自殺というか、ゆっくりゆっくり、しかし着実に、自分が自分じゃなくなっていく。そんな気分です。

仕事の悩み

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少し脇道へそれます。

今年に入って、カメラに夢中になるようになりました。これは、ブログを始める前には何一つ夢中になれるものがなかったわたしにとって、とても貴重な生きがいになりそうです。楽しむだけの趣味に終わらず、批判も受け入れるライフワークとして確立させていきたいです。

それもあって、やはり興味のない、熱意の湧き出ない仕事をするより、自分の好きなカメラに関する仕事ができたらな、と思うのです。

これじゃない感

若者の仕事についてよく言われる「まずは3年」の言葉。3年やればある程度のことが自然と見えてくる、といった意味だと考えています。

わたしの場合、今年が3年目ですが、正確に言えば2年半となります。仕事で適応障害になってから、半年間休みましたから。

会社に復帰したあと、それまで工事現場の現場監督をやっていたのですけれど、職務内容が性格にまったく合わなかったので、社内で部署異動しました。

CADソフトを使って、建物の図面を描く仕事をしています。工事現場と違って、土日祝日休みの、内勤です。体力的にも精神的にも負担が軽くなり、復帰して半年たった今でも、ちゃんと働けるようになるまで回復しました。

しかしながら、どうしても「これじゃない感」がまとわり付きます。入社してからずっと同じ。3年やってても、「仮の仕事」にしか考えられません。

このままこの仕事を続けていこうとは、どうしても思えない日々です。

仕事って、どういうものなんでしょうね

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「なんで今の会社に入ったの?」という質問は、わたしがもっともニガテな問いかけです。

なぜなら、そこに夢も希望もなかったからです。

内定式の帰りの新幹線のなかでは、否定的なことをひたすらノートに書きなぐったし、入社式の日の夜には、ホテルで転職の本を読んでいました。

こうなったのも、就職活動で自分には何もないことに気がついてしまい、なかばうつ病のような状態となり、それでも採用が出た会社に入社したからでしょう。

働き始めれば何かが手に入ると思ったのです。しかしながらこれは、ようするに、上手く先延ばしに出来ただけのこと。

今になって、再び直面しているのです。自分には何もないことに。

毎朝の脳内会議

世の働く人々の中には、いろんな人がいます。

好きなことを仕事にしている人、今日を生きるのに必死な人。ここではないどこかへ行こうとする人、ここで良いのだと地に足をつけている人

さまざまな人の姿を想像し、今朝も昨日の朝も、明日の朝だって、以下のような脳内会議をします。

「現状を受け入れろ派」

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「興味なんか仕事に必要なのか?戯言はしてくれよ、そんなの甘えてるだけだし、事実、お金のために仕事している人のほうが多いだろ?興味の有無なんて、バカなこと考えてるんじゃない」

「毎日定時にあがれて、生活できるだけのお金をもらえて、何が不満なんだ?お前はきっと、余裕があるんだろう。人は暇があるとついつい、ムダなことを考え始めるクセがあるからな」

「仕事なんて暇つぶしだと思ってやっていればいいんだ。それに、日本はまだなんだかんだ言って年功序列だ。勤め先はIT企業じゃあるまいし、建設業界なんて昔からある仕事だ。上の人が完全に去らない限り、どうせこの流れは変わらんさ。長く勤めていればそのうちこんな悩み、どうでもよくなるだろうよ」

これらの意見を発言する彼らは、「現状を受け入れろ派」です。今のままで良いではないか、求めすぎるから余計苦しくなるのだ、と言っています。

反対に、彼ら正面にいるのが「心にしたがえ派」です。

心にしたがえ派

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「一時的な熱病のような感情ならば頭を冷やしたほうが良かろう。しかしながら今回の場合、すでに約3年間、同じようなことを考え続けているではないか。たしかにまだ曖昧ではあるから、まだ動くのは時期尚早。だが、けっして無視してはならないぞ。お前にだって『なんとかする力』はあるはずだ」
「内面の自分自身としっかり向き合え。彼らの声ばかり聞いていても、満足はしないだろう?ブログでもTwitterでも良いが、別な『彼ら』に出くわして叩かれては意味がない。1人で静かに、ノートに書き綴っておけ。日記なんか良さそうだ」

「このブログがそうだが、お前はたしか、期限を設けていたな。ちょうどいいではないか。その期限内に答えを出せ。その期間は残り1年と10ヶ月。その間、マジになってみろ。それでダメならそこで初めて、彼らと再び顔を合わせるのが得策だと思うが?」

朝と夜

このように、朝はいつもこんな脳内会議が繰り広げられる状態が続いています。

特に午前中は「現状を受け入れろ派」と「心にしたがえ派」の衝突が激しく、まるでわたしが夜中眠っている間、ずっとにらめっこをしていて、目が覚めると同時に両者の乱闘が始まるかのようです。

連日のこうした頭のやり取りは、多くをメモに残しています。これはブログを始めてから身についたクセです。でもおかしいですね、わたしがわたし自身の記者をしているようで。

夜になるとそのメモを見返すのですけれど、そのころには両者も、それをレポートするわたし自身も疲れています。「もういいよ、そんなこと」と言ったっきり、見向きもしません。かわりにこうしてブログを書いたり、YouTubeでカメラ関連の動画を見たりして楽しんでいます。夜は落ち着くのです。

仕事が終わった夕方からは、朝思っていたことのカケラも思い浮かびません。ところが朝になると、再び脳内乱闘が始まってしまう。適応障害になったときも、体調不良は午前中に集中していたことを考えると、妙に似ているところが気になります。

最後に

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結局ここまで書き綴ってきた、というより書きなぐってきたのですけれど、何一つ解決していません。話もぜんぜんまとまっていない。でも長くなってきましたので、この辺で締めようと思います。

最後に、ある小説の話をします。

半年ほど前に読んだ、中島敦の『山月記』という小説です。文章自体は長くなくて、文庫本の10ページくらいしかありません。ところが読んでみるとわかるのですが、そこには一切のムダがなく、たいへん深みのある内容になっています。

主人公は詩人に憧れています。

名のある詩人になるために、当時出世コースにいた仕事人生も思い切って切り捨てたのです。しかし、詩に対する己のプライドが邪魔をしてしまい、作品を発表したり、他の仲間と切磋琢磨することを避けてきました。

その結果、自分のプライドが、成長しようとする自分を心の中に封じ込めてしまいます。行き場を失った気持ちは内部で肥大化し、ついに虎となって己を突き破ってしまいます。

わたしは今、仕事と生き方について悩んでいます。

なんとかして、打開策を練りたいところです。

李陵・山月記 (新潮文庫)

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